山村貴輝
多摩ニュータウンの埋蔵文化財の調査は1967年に開始され、2003年現在には概ね調査が終了している。事業の計画段階を含めると、およそ半世紀近く調査が実施されてきた。この調査は本論文にあるように、埋蔵文化財の本調査と先行(あるいは並行)して詳細な分布調査が開始されている。この分布調査を成果の基本ベースにして記されたのが本論文である。無論この中のデータの数値的な部分は当時のデータであり、今日では大きく変わっていることは言うまでもないことである。
ここで小林達雄は今まで遺跡を集落跡として漠然と捉えていたものをセトルメントと言う概念を設定し、集落の規模や出土遺物を考慮した上で、AからFまでのパターンに分類した。このパターン論あるいはセトルメント・アーケオロジーは1970年代前半期に注目された。この背景には多摩ニュータウンの大規模開発と、それと連動した大規模調査に対する考古学の側から意義付けを付加したのもと言うこともできる。言い換えれば大規模開発とそれに伴う埋蔵文化財の調査に対して、考古学的意義を対置したのである。そしてその対象は、単なる開発規模の大きさからなどに関わらない、集落遺跡の分析に止揚された。つまり開発規模の大小に関わらない、集落遺跡の考古学的意義としてのパターン論であり、セトルメント論を提起したのである。
この集落論は集落などの規模の分類だけではなく、セトルメント・システムの解明を言う課題を設定している。例えばAパターンや集落とBパターンの集落とC・Dパターンの遺跡との有機的関係の解明などについてである。
それについてはいくつかの考古学的課題もある。例えば共時性と言う時、その時間枠の設定などが重要な前提条件となる。
その問題については縄文時代中期の南関東地方では、時間軸の設定は1990年代になるとかなり詳細な縄文時代中期の土器編年が提出され、一応の展開を論じている(黒尾他1995)。その一方この土器編年の評価はともかくも、多摩丘陵や武蔵野台地の縄文時代中期の豊富な調査事例の蓄積をまとめ、それを整理した集落間の構造分析がなされている(谷口2003)。無論小林達雄やそれを発展させる谷口の集落論に異論がないわけではない(土井1985他)。そう言う批判も含めて小林達雄の問題提起は、現在的なものであると言ってもよい。
谷口はAパターンの集落を拠点集落と呼び換え、その拠点集落を軸にした集団の領域のモデルを設定している。言うなれば小林達雄パターン論の谷口式の今日的な研究である。あるいは拠点集落に視点の重心をおき、その動態を論じる研究もある(安孫子1997)。このように小林達雄の問題提起は色あせることなく、今日に至っている。
小林達雄自身は「遺跡は、特定の機能を意識した青写真によって、具体的に大地に設計されたセトルメントである(本論文引用)」と言う課題を現在まで問い続け、「縄文ランドスケープ論」として発展させている(小林2002)。つまり縄文人の世界観に接近しているのである。この「縄文ランドスケープ論」は小林自身による遠大な研究成果であり、そこには多摩ニュータウン調査以来の一貫した問題意識に貫かれていることを、本論文で改めて再認識される。そういう意味で本論文は20世紀後半期から21世紀まで継承された基調論文の一つであると言える。
註
黒尾和久他1995「縄文中期集落研究の新地平 シンポジュウム発表要旨・資料」縄文中期集落研究グループ
谷口康浩2003「縄文時代中期における拠点集落の分布と領域モデル」考古学研究第49巻第4号(通巻196号)考古学研究会
土井義夫1985「縄文時代集落論の原則的問題―集落遺跡の二つのあり方を巡って」東京考古3 東京考古談話会
安孫子昭二1997「縄文中期集落の景観―多摩ニュータウンNo.446遺跡―」研究集録XVI 東京都埋蔵文化財センター
小林達雄編2002「縄文ランドスケープ」NPO法人ジョーモネスクジャパン機構